
改めまして、あやかです。
このページでは、中野あやかがどういった人間なのか、私の考え方や価値観に触れて・知ってもらいたくて作成いたしました。
また、お仕事ご依頼の参考になればと思っております。
ところどころ頭のねじがハズれているような(笑)内容が含まれますが、最後までお付き合いいただくと大変うれしいです。
佐賀県有田町に産まれる

1993年11月5日・金子家の長女として産まれ、ちょっと変わった父と母に育てられました。
父は怒ると乱暴ではありましたが、父なりの愛情もありよく一緒に遊んでくれた記憶があります。
といっても父の脳みそは、子供のままだったので隣の家に花火を向けてロケット花火を打ちはなったり、はたまた反対側の隣の家にサッカーボールをけり窓ガラスを割ったり(父はやらかした!と笑っていた)かなり破天荒な父親でした。
今考えると、信じられない最低な父親でしたが、当時は私のお父さん面白い!と尊敬の眼差し?で見ていた記憶があります。
一方、そんないい加減な父でしたが「人のせいにはするな」「自分でやったことのケツは自分でふけ!」とわりと筋の通ったことを言っていたため、子供ながらにまともな事言うな〜と感心していた部分があります。
でもまぁ最終的には、機嫌が悪くなるとすぐに暴力をふるっていたので、小学生ながらにどう接していいかが分からなくなっていましたね。
父親の顔色をつねに伺うみたいな。
そうして、私が中学生くらいになると徐々に会話はなくなりました。
そんな父親だったので、母は子供(私たち)に申し訳なく思っていたのかとにかく優しかったです。
基本的には何でもお願いは聞いてくれましたし、そんな母親を正直私はなめてかかっていました。
当時の母の口癖は「離婚したいけど子供たちがいるから我慢・・・」でしたね。
生意気な小学生時代

そんな私は、父の影響もあり小学生の頃はとにかくいたずら大好きな子どもでした。
いたずらと聞くと可愛く聞こえますが、かなりガチなヤツで大人を本気で困らせていた記憶があります。
- 年賀状に友達の名前を偽って好きですと告白する
- 道路に石で落書きをして回る
- 嫌いな先生に正面から「〇ね!」と暴言を吐く
- あいさつをしない年下をいじめる
- 万引きは朝飯前
今考えてもあり得ない最悪な小学生ですよね。
当時の私は、得意なこともなくいいことをしても注目してもらえなかったため、悪いことをして私だけを見てほしくて仕方なかったのかもしれません。
バスケにはまった少女

中学では、バスケ部に入り人生で初めて熱中しました。
先生の話をきき、ちゃんと練習すれば努力を認めてくれ結果が出るんだ!と学んだのもこの時です。
中学2年ではレギュラーに抜擢され、かなり田舎ですが地区の選抜に選ばれたこともあります。
学校が終わると部活をし、帰ってからも走り込みなどの練習の日々。
そんな自分が嫌いじゃなく、初めての自分の得意を見つけられた気がして嬉しかったのを覚えています。
ただ、やんちゃな部分は抜けきれず…友達とタバコ吸っていたことがばれ、部活停止になった時がありました。
先輩や友達に申し訳なく、本気で反省しましたね。
この時から悪さをすることは恥ずかしいこと、信頼を裏切ってはダメ、みんなに迷惑をかけることは辞めよう、と心から誓いました。
今考えると、この時の経験から私の価値観として「信頼」に重きを置くようになったと感じます。
当たり前のことですが、嘘や悪いことは必ずバレます。
良いことは一つもないのだ、と中学生にしてようやく学びました。笑
であれば、人に対して信頼してもらえる人間になろうと意識しだしたのもこの時です。
中学二年生大恋愛をする

そうやって部活に明け暮れる日々でしたが、中学2年の冬同じクラスで好きな人ができました。
この時の彼が、大人になった今でも思い出すくらい本気で好きになった相手です。
彼はクラスでもいわゆる【モテ男タイプ】の人。
結局1年半くらいで、彼の浮気が原因で別れることになったのですが、復縁を迫られることが3~4回続いて振り回されていることに気付き精神的にもボロボロになっていました。
それでも好きという感情を抑えきれずどうしようもなかったです。
これがまさに中二病ってやつですかね…笑
独学でもできる女

彼との復縁を繰り返しながらも、受験のことも同時に考えなくてはいけません。
たいした得意がなかった私は唯一「料理が好き」
というより「食べることが好き」
そう思い隣町にある「調理学科」コースに向けて受験することを決意しました。
当時の倍率は覚えていませんが、周りの高校より難易度が高いと言われていたような学校です。
中学3年の春の成績は、学年100人中80位くらいのめちゃくちゃ中途半端な奴。
というか、かなり悪かったですね。
遊びと部活に夢中になっていた私は、この時初めて「受験ヤバイ」と危機感を持ったのです。
部活を引退した中学3年生の夏から本格的に勉強することにしました。
この時、強烈に覚えているのが、
「中学の勉強は小学生からしたら応用編・・・ということは、基礎から学ばないと何もわからない!」
ということです。
これは大人になった今、まさに思うことですが、仕事においても「基本を抑えること」は凄く重要なことと日々頭の片隅でチラつかせながら生活しています。
ここからは、小学3年生の教科書を引っ張り出して基礎のキから勉強しました。
朝5時に起き、体力的にはきつかったはずなのに学ぶことが性に合っていたようで、狂ったように学習する体制はこの時から変わりません(笑)
そして、中学3年の冬のテストでは100人中15位まで登りつめていました。
塾に通っていた周りの子が焦っているのを見てガッツポーズしたのを覚えています。
この勢いもあり、無事合格🌸
春から高校生になりました。
昼逃げ事件~16歳の夏~

楽しみにしていた高校生活でしたが、現実はそう甘くはないことに気付かされました。
ここで私の中で、佐賀県から逃げ出したいと思う出来事が3つ重なります。
1つは、当時付き合ってた彼の影響もあり…
詳細は省きますが、当時から精神的に打たれ弱かったのも関係あると思います。
母が離婚したいと言っていたことを思い出し、ここで初めて「離婚したいならついていく!出るなら今だよ!」
そう提案し、家を出たい母を全面的にプッシュ。
この時の私は『この町から逃げたい、消えたい、もはやどうにでもなれ』でした。
この記事ではほとんど触れていませんが、父の暴力も年々ひどくなっていたんですよね。
そうして、1か月かけて着実に荷物などの準備をし、父が仕事に出ている間に母と私、弟でついに
昼逃げを決行しました…。
どこかで見つかって殺されるのではないかとすごく怖くて、
心臓のバクバクはしばらく止みませんでした…。
児童相談所で隔離そして新しい出会い

向かった先は、児童相談所の保護施設。
DVの人は追っかけてきて何をするか分からないので、ここから1か月半にわたって保護されることになりました。
この施設には、いろんな子がいて我が家のようなDV被害者もいれば、やんちゃすぎて親が手を付けれない子、ネグレクトにあっていて保護されている子などさまざまです。
この時良かったこととして、児童相談所で出会った友達2人は大人になった今でも仲良い大親友が見つかったことです。
きっと、一生の友達になるんだろうなと確信しています。
精神的にはかなりきつい状況なはずなのに、24時間一緒に暮らす友達がいたので何の心配もなく楽しく施設暮らしをすることができました。
その後、佐賀県には頼れる人がいなかったので、福岡県の母子寮にしばらくお世話になる流れになりました。
退学。そしてとにかく働く

こういった経緯があり、佐賀県にいたときの高校も4か月半で退学。
転校という選択肢もあるよ?と児童相談所の人に提案されましたが、私はやりたいことがなかったため時間の無駄だと拒否をして、フリーターになることにしました。
なによりもお金がないと自分の携帯代も払えないと思ったからです。
人生で初めてのハローワークに行き自分の強みが分からなかったのですが、人と話すことはこの時から好きだったためとりあえず接客業で職業探しをすることに。
そこで面接に行った精肉店の社長に気に入られて
「明日から来い」
と、一発採用となりました。
ここから21歳で結婚するまでに、いくつかのバイトを繰り返します。
- 精肉店
- たこ焼き屋
- 個人の居酒屋
- ガールズバー
- キャバクラ
精肉店(16~18歳ごろまで)
精肉店と言っても、山奥にある豚肉専門のちょい高級レストランで、養豚場と精肉所も併設しているような職場でした。
真面目な私は、まずは認められたいと思い、言われた業務はすべてメモをしコツコツと仕事を覚えます。
この当時は、がむしゃらに働く私とは反対に、友達は楽しそうな学生ライフを過ごしてるのをネットの情報(当時はデコログが流行っていた)で知っていたので「私も遊びたい・・・」と悲しくて裏でよく泣いていましたね。
働きづめの生活が約2年ほど続いたある日・・・
ふと、
「社員と言いつつ社会保険の加入もない」
「低賃金ブラック企業」
「ぴちぴちの若い私がいる職場ではない←」
こんな会社に、本気で嫌気がさしてついに退職を決意しました。
(あ、この時の社長とは今でも仲良しの関係です。笑)
たこ焼き&定食屋(18歳~19歳半まで)
次に働いたのが地元で有名なたこ焼き、お好み焼き屋さんです。
なぜここで働きたいと思ったのかというと、一言で言うと「とにかくゆるそう~」だったから。
バイトの子は見た目がやんちゃな子が多く、オーナーもおじいちゃんとおばあちゃんで勤務内容も簡単そうでした(笑)
この時もがむしゃらに働いていたおかげで、オーナーやお客さんにかなり可愛がってもらっていた記憶があります。
昼晩のまかない2食までお世話になっていたので、学生のわりにお金も持っていた方かなと…学生の割にはですが。
この時気付いたのが「私は時給制は自分には向いていない」ということ。
入社日が一緒の同期がいたのですが、その子は日中めちゃくちゃサボっているのにこの子と時給が同じ…それだけがどうしても許せなかったんです。
でもここの職場の仕組み上、頑張っても時給は変わらない。
会社ってまあ、そんなものじゃないですか。
今振り返ると、当時は諦め癖が早いしそもそも時給を上げるやり方すら考えきれない、ただの他責思考だったなあと感じましたが、
仕方ないことだ。と理解し、次に夜のお店の「歩合制」という仕組みに興味をもつようになりました。
そんな中見つけたガールズバーという働き方で、私の仕事に対する価値観が変わった職場に出会えたんですよね。
ガールズバーのママに本質的な働き方を学ぶ
たこ焼き屋が終わったら、週に三回ほどガールズバーで働くようになりました。
この時の勤務時間は、日中を合わせると15~18時間超えていてほとんど遊ぶことなく仕事していた気がします。
これまでバイト先で評価してもらえていた私ですが、初めての夜のお店・・・
ここでは最初からダメ出しが多く、ボロカスに説教されていました。
自分のことを気に入ってもらい、そこに価値を感じお金を払ってもらう
このお仕事の本質が理解できず、お店のママに「あんたは何しにきてるの?」と怒られる日々が続きました。
そう、職場での初めての挫折です。
何をどうしたらいいかも分からずママもお手上げ状態でした。
「顔だけはいいのにね・・・」
こんなことを言われてショックで、でも変わりたくて…
この時からママとの交換日記が始まります。
この交換日記が、私の働き方に対する意識が変わった出来事でした…。
この日記に書くことには4つのルールがあります。
- 出勤した日の出来事を書くこと
- 反省点を書くこと
- 改善点を書くこと
- できるようになったことなど、良かったところを書くこと
世にいう、PDCAでしょうか。
最初は書き方も分からず、なんとなくで書いていたものでしたが次第にコツがつかめてきたのか、日記に書くべきことが分かるようになりました。
お客様からの指名が多い女の子の仕草や言葉遣いを徹底的にパクり、反省→改善→実行を繰り返します。
このお客さんはなんでこの子に会いに来ているのか?
笑い方?
目線?
歌がうまいから?
知識が多いから?
すると、この日記を続けて私の評価はみるみる変わっていったんですよね。
私目当てに来るお客様もふえ、ママからも褒められることが増えたのです。
2年近く続け、後輩に指導する側になったりもしました。
当時は、PDCAという言葉すらもちろん知りませんでしたが、今考えるとあの時に仕事で大切なことを教えてもらっていたんだと気付かされました。
ただ、ガールズバーは夜のお店とはいえ、時給も低い方だったので少しずつ不満が…
人間って欲深いものですね。
「どうせやるならもっと稼ぎたい!」
向上心だけは強い中野綾香は、友達から紹介してもらった中州キャバクラのお店へ飛び出すことにしたのです。
この時思い切って、たこ焼き屋さんとガールズバーを両方退職し新たなステージへと踏み出します。
中州のクラブ(キャバクラ)デビュー

19歳の夏。
夜の世界に飛び込むことになり、お客様も0の状態からスタート。
このお店は小さい箱(店)で、キャストも15人いないくらいの店舗です。
正直、怖くて893みたいな人が来たらどうしよう…とビビりながら、面接に行ったことを今でも覚えています。
面接官は、サンタさんみたいに太ったにこやかなおじさんでとりあえず安心(笑)
そして、次の日から来てね、ということで中州デビューすることになりました。
ここでも毎日日記をつけ「お客様の名前、話した内容、特徴、反省点など」1テーブルずつ記録をつけ、ついた人には必ず営業の連絡をかかさずやりみました。
一度やると決めたら、逃げ出したくない中野綾香。
その根本にあるのは、お客様や黒服・女の子との「信頼を裏切りたくない気持ち」がいつもあったように感じます。
当時ナンバーワンの同じ年の子と意気投合し、お店が終わってからもよく遊ぶようになりました。
一泊二日の大分旅行にも行ったりするほどの仲に。
ナンバーワンの子からも認められたのかなってすごく嬉しかったんですよね。
そうして2か月続けていると、徐々にお客様も増えていき…
3か月目にはあっさりナンバーワンになりました。
普通に売り上げがすごい女の子がいる店舗だと、まあ、あり得ないと思います。
ナンバーワンと聞くとすごそうに聞こえますが、小規模な店舗なので全然大したことはないのです。笑
ただ…
この時仲良かった(元)ナンバーワンの子は手のひら返したかのように、私の悪口を言いまわるようになったんですよね。
怖いですよね。。。
こんなことで人間関係が壊れるんだってことを知ったのもこの時です…
悲しくて、めちゃくちゃ泣きました。
親友に泣きながら電話したっけ。
夜のお店は、やはりお客様も癖が強い方が多く精神的にも参ることは多かったです。
それでもやっぱり、また来店してくれるお客様の笑顔や黒服の支えがあり、この職業に生きがいややりがいを感じることができました。
夫との出会い
そんな時、なにげなくついた席で知り合ったのが元夫です←
この時からたまに連絡をしては、来店してくれることもありちょっと面倒くさいけど、比較的いいお客様だったような気がします。
誕生日にはお祝いしたり、はたまたしてくれたり…仲の良いお客様の1人って感じでした。
夜の世界を辞め21歳で結婚
当時、オッパブの店長と付き合っていたのですが、あまりうまくいっていませんでした。
気分も落ち込んでいた私にm付き合ってもいない男(元夫)から「結婚しようか?」という突然のプロポーズ(?)
恋愛に疲れていた私は、ノリと勢いで「いいね!しようか!」と即返事をし、そこから2か月後に籍をいれました。
(脳みそ酒でやられてたのかな)
当時のお店の店長たちもお祝いしてくれて、わりとスムーズに退職することもできました。
まあ、お客様と夜の女の子が結婚することはかなりあるある話です。
私の周りも8割近くがそうだったので(笑)
ちなみに結婚相手は誰でも良かったわけではありません。
恋愛のドキドキこそなかったですが
- 一緒にいて一切気を使わないところ
- 嘘をつかないところ
- ちゃんと連絡を返してくれるところ
- 好きや嫌いが合うところ
など…結婚相手として見たときにこの人となら幸せになれるかも!と直感で感じたからです。
出産するまでバイト・店長に気に入られる

入籍後、すぐに妊娠発覚。
出産まで家にいても暇ということで、近所でバイトを探すことにしました。
経験もあったスーパーの中にある精肉店で早速、働くことに。
真面目に働いていたらここでも店長に評価され、ものすごく気に入ってくれたのを覚えています。
なぜか毎日のようにファミマのフラペチーノおごってくれていましたね。。
家事育児の日々・料理に目覚める

無事出産をし、子育てと家事の日々が始まります。
家事の中で唯一、料理が好きだったので外食して美味しいと思ったものは家でも再現料理を作ることも多かったですね。
たまーに夫と喧嘩をすることもありましたが、「察する」じゃなくて、言いたいことはちゃんと言って会話をしよう!とルールを決め夫婦生活も順調だったような気がします。
お金が貯まらない、でも理由が分からない

そんな夫は、結婚前から「個人事業主」という働き方でした。
当時の私は、個人事業主と会社員の違いが分からず税金の知識もなかったため「節税」という考え方の概念すら知らなくて。
ただ、とにかく貯金をしたかったので、この時かなり節約を頑張っていたんですよね。
- ノーマネーデーを積極的に取り入れる
- どこ行くにも水筒・お弁当は持参
- できるだけ自炊
ですが、貯金できるのはせいぜい月5万円ほど。
年間で貯められるのも60万円くらいでした。
第二子・第三子を出産

そんな生活だったのでお金はあまりなかったですが、夫との関係も悪くはなく子供も2人、3人…と増えていきました。
3人目を生んだあたりから、少しずつストレスが溜まるようになり、酒に溺れる日々が続きます。
このストレスは何だったのか言語化してみると、子供がふえるにつれて
- 自分のあれやりたい!と思ったタイミングで行動できないこと
- 睡眠の邪魔をされること
- 行きたい場所も制限されること
- 母親だからこうしなきゃ・・・!と自分の中で考えが偏っていたこと
こうやって文章にしてみると分かりますが、周りから見ていくら幸せそうな状況でも、子供がいて幸せな反面やはり自分が満たされてないと「自分」というものは狂ってくるものだと思います。
この頃から、子育て系YouTubeを見るようになり「子育てってもっと気楽でいいんだ、適当でいいんだ」ということを学んだ気がします。
今思うと、この時期からYouTubeで学ぶクセがついてきていたみたいです。
このままじゃヤバイ・お金の勉強を始める27歳の女

そうこうしているうちに気付けば27歳。
子供も幼稚園に通いだし習い事も始まりました。家事育児、毎日充実はしているもののお金の不安は払しょくできません。
お酒を飲みながらYouTubeを見るのが日課になっていたこともあり、次第にエンタメ系→教育系チャンネルを
見るようになっていました。
この時に、今や主婦投資家で人気のりりなさんを知りました。
株主優待生活の動画を見て「こんな生活があるんだ!」と純粋に憧れたんですよね。
その数日後にインスタでもりりなさんのアカウントを見つけて「あれ?この人は数日前のYouTubeの人!」とテンション上がったりも(笑)
また、並行してハマっていたのが「中田敦彦のYouTube大学」
ある時、お金シリーズに目がとまってしまいメモしながらひたすら勉強している自分がいました。
お金の勉強からブログを始めるまでの私の思考回路が以下。
~~~~~ ~~~~~ ~~~~~
【中田敦彦】お金の勉強
↓
お金を増やす何か・・・副業何かしたいなぁ
↓
【両学長】副業やブログを知る
家でノーリスクで始めれるかも
↓
【ヒトデさん・なかじさん】
ブログっというものがあるのか
~~~~~ ~~~~~ ~~~~~
多分みなさんあるあるルートだと思います(笑)
しかし、私はパソコンがなかったのですぐに行動できませんでした。
っというより、パソコン代がもったいないと言い訳をして逃げていたんですよ。
ここから数か月はほかのチャンネルを見てダラダラと過ごしてたっけ…。
そんな時に目にとまったのが、「インボイス制度」に関する動画でした。
『この制度が実現されたら夫の売り上げは実質減るぞ・・・ヤバイ』
本当に危機感を感じて、あと2年あるから今から動けば未来は変わるかも!ついに覚悟し、私は動き出したのです。
人間、やっぱり危機感がないと行動しないという言葉はどうやら本当のようですね。
私の人生において、危機感を持った時にこそ本領発揮されるのだなあと、この記事を書きながらまた一つ気付くことができました。
インスタ→ブログを始める

さて、すぐにブログを立ち上げようとしましたが、それよりもまずは情報収集です。
今の世の中の需要や、どうやったらブログで稼げるようになるのか徹底的に調べ始めました。
ふと「今の時代ブログをやるならSNSと掛け合わせたほうがいい」こんな情報が目にとまります。
なんの根拠もなかったのですが、普段から見ていたインスタとブログを同時にやればいいのか、と考えインスタグラムの勉強をするようになりました。
この時学ばせてもらった人が「エヌケンさん」のインスタ攻略の動画。
誰に向けて?どんな内容を?プロフィールの重要性やインフルエンサーさんとの交流の重要性など基本的なことを学んだ気がします。
普段から個人事業主や青色専従者の情報が少ないと嘆いていたので、このジャンルでやってみよう!と決めすぐにアカウントを開設しました。
《ふうか》という名前は、私が小さい時から、可愛いなぁと思ってたので適当につけました。
ブログもすぐに始めたかったのですが、パソコンがなかったため一旦後回し。
まずはノーリスクで始められるインスタから投稿を作ってみることにしました。
とにかく学ぶ日々

3人の子供が寝たら、毎日起き上がって必死に投稿を作りました。
- インスタの操作、運用方法
- 投稿の作成の仕方、デザイン
- キャンバの使い方
- 情報発信の内容、語る資格になるまで勉強
- フォロワーさんとのコミュニケーション
勉強しては投稿作ってアウトプットする日々。
そうこうしていると、2~3か月でフォロワー数も1,000人ちかくを超えることができ、自分のなかでまた再現性が確立できたように思います。
私の中の再現性というのは「正しい方向性の努力と行動、継続」です。
このインスタは伸びる、と確信したのです。
一番気を付けていたことが「周りのフォロワー数が多いアカウントのインフルエンサーさんと仲良くすること」
これだけは積極的にコミュニケーションをとりメンションしてもらう(またはする)機会を増やしました。
ちょっといやらしいですが、これも立派な戦略です。
私が、フォロワー数7万人超えたのはこれが要因といっても過言ではないのです。
このときにFPや簿記の資格もとったことで自分でもできるんだ、と改めて自信に繋がりました。
・・・いや、むしろこれまでの経験で「正しい方向で継続して学べばできる!」ということを知っていたからこそ挑戦できたのかもしれません。
まさかの4人目

この頃、まさかの4人目妊娠が発覚。
子供を産むたびにつわりがひどくなっていた私は、今後生活できるのか不安でした。
案の定、つわりは約3か月続き朝から晩まで吐きまくり。
ほぼ寝たきりで精神的にもボロボロになっていましたね。
夫やフォロワーさんの支えもあり、何とか乗り越えられたのかも。
その後、無事出産しさらに忙しい日々が続きました。
忙しかった日々ですが、4番目の子どもって1人目と全然違う感覚でして。
孫のように(笑)ただただ可愛いんですよね。
なので本気で怒ったことは一度もありません(笑)親ばかにもほどがあります。
この頃は、仕事にも全力投球で順風満帆な生活をしていたように感じます。
初めてのコンテンツ販売3日間で売上7桁超え

忙しく過ごす中、インスタグラムのフォロワーさんに向けて「国保の悩み」が多く届いていました。
個人事業主は、稼ぐほど国保料も高額になりがちで皆さん悩まれていることに気付いたのです。
そんなフォロワーさんに、我が家の情報が解決法のヒントにならないか考え、出た答えがコンテンツ販売です。
まさか自分がコンテンツ販売するとは思わなかったのですが、やるからには徹底的に考えましたね。
私が販売したのは「有料note」
どうやったらみんなに認知してもらって売る流れを作るのか?ここは事前にかなり勉強しました。
ストーリーでリリース前に教育したり、興味ない層にも悩みを気付かせるような訴えをかけライブで訴求をするマーケティング(?)と言われることは色々やった気がします。
おかげさまで3日で350部以上売れ、売り上げも予想以上に立ったのはとても嬉しかったです。
目標を立てそれに向かって全力で準備すれば結果が出る、という経験が積み重なりそれが自信に繋がっていたのかもしれません。
私が学ぶことから逃げなかった理由
ここで少し、2〜3年前に猛勉強していた当時のことを思い出してみました。
なぜ私はあそこまで学ぶことを辞めなかったのかなと。
10代の時は、歳が若いだけでわりとチヤホヤされて生きてきました。
しかし、結婚して20代後半になってハッと気付いた時があったんですよね。
「このままじゃ私はただの無知なおばさんになってまう!」
見た目もチャラついてるのに中身も幼いままだと、人として・女性としての魅力が半減するのではないか、そう思い急に焦ったのです。
それだけはどうしても嫌だ!!
最低限の知識とマナーがある女性になろう!!
この感情もまさに自分のなかの危機感ですね。
この必死さがあり、徐々に「若いのに税金のこと知っててすごいね」こんなことを言われるようにまでなりました。
次第に【無知は損だ、みんなにも知って欲しい】
そこから情報発信の楽しさを覚え、さらに感謝されお金をいただく喜びにも繋がったように感じます。
私の原動力はやはりここでも危機感でした。
忙しい日々、夫婦喧嘩が増える

仕事では順調でしたが、この頃から夫婦喧嘩が絶えなくなりました。
普段は何でも話せるし笑いのツボも合う関係ですが、夫の要望と違ったことやミスをするとかなり責めて怒られていました。
もともと左脳タイプの夫と(よく考えて行動する・考えすぎて行動が遅い)右脳タイプの私(あまり深く考えずとりあえずやってみる・失敗やミスも多め)では、事業の意見が合わないことも多かったです。
喧嘩といってもあちらからの説教。
おそらく私の優先順位が仕事に向きすぎていて、本来の目的とずれているやろ?と夫は指摘したかったのだと思います。
彼の理想は「奥さんは専業主婦でいてほしい、家事育児をメインでやってほしい」それが口癖でした。
私がインスタを始めること自体はすごく応援してくれていましたし、ブログの立ち上げにも全力で協力してくれていたのですが、空いた時間は常に仕事をするようになった私が面白くなかったのかもしれません。
【私の悪い癖は2つ】
一つ目は、一回ハマってしまうと周りが見えなくこと。
周りから話しかけられても声が聞こえなくなるほど集中してしまい、無視されたと思われることも多くなりました。
それを夫や子供から指摘されたときには、自分もされたら嫌だし必死に直そうと努力しました。
インスタは、お金を稼げたのはもちろんですが、私を見てくれてる世界が、非現実的で承認欲求を満たされていたから
あんなにはまっていたのかと今となっては思います。
集中するのは良いことだけどほどほどにすべきだった、と反省するべき点だと思いました。
二つ目は、優先順位を付けることがへたくそなところ。
家族のために、収入を増やしたくて行動に移したはずなのにいつしか家族よりも仕事を優先している自分がいたのです。
ここは考え方がかなり難しいのですが、本来、稼ぐのは夫の役目なのだからそこまで焦って自分を追い込まなくても良かったはずなのに、優先順位を見失い行動してしまうところがありました。
この点も反省するべきところです。
インスタ運用2年半でフォロワー7.2万人を達成

毎日投稿こそできなくなっていましたが、気付けばフォロワー数も7万人を超えていました。
DMの数も多く、当時はかなり疲弊したように感じます。
ふとした時に、自分は何がしたいのかわからなくなる瞬間もありました。
個別相談などほかのこともやってみたいけど自信がない・・・
やり方が分からない・・・
インスタを開けば自分の居場所となっていて安心感があり、なにか新しいことに挑戦するということができずにいました。
まあ、正直に言うと更新を止めるのが怖かったっていうのもあります。
そんな時に事件は起こります……
【31歳】中野綾香今の目標
詳細は今は語れませんが、現在、離婚調停に向けて動いている段階です。
私の一番の優先は、子供と一緒に暮らすこと。
子どもを笑顔にしてあげること。
子どもに会って、ギューッと抱きしめてあげること。
願いはただそれだけです。
そのために今できることは、自立をすること。
子供を迎え入れて、一緒に暮らせるくらいの収入を得る・スキルを身に付けることだと思います。
そのために今、自分ができる大好きな仕事で日々頑張っています。
今の私は、危機感しかないのですから…。
別居して学んだこと

別居して私は一人ぼっちになりました。
家も家族も仕事もスマホも荷物も…
失うものはなにもなく、もはや無敵です(笑)
とは言いつつも、別居以降は「〇にたい・消えたい」ずっとそう思っていました。
子どもに会いたくて、
でも会えなくて、
私には何もなくなってしまった。
急に涙がぽろぽろ止まらなくなって、、
「楽して〇ねる方法」をひたすら検索していました。
しばらく寝込んでこれは悪夢なんだって、
現実から目を背けていた時期もあります。
すごく、
すごく、
しんどかったです。
そんな時、
私を支えて下さったのが
母や友達・周りの仲間の存在でした。
こんなにも、支えてくれる人がいなかったら
今の私は絶対にいません。
本当に日々、感謝しかありません。
このような経験から、「ご縁」や「信頼」は私の人生にとって、大切にしていきたい重視すべき価値観なのです。
自分と向き合う大切さ
また、急に一人ぼっちになったので、嫌でも考える時間があります。
自分と向き合う時間が圧倒的に増えたんですよね。
なので心の修行と思って、
最近は「お坊さん」のお話や「自己理解」の
YouTubeにはまって見るようになりました。
そこで、「ゼロベース思考」という言葉に出会いました。
ゼロベース思考とは、前提知識や思い込みにとらわれずゼロから物事を考えることです。
この時に気付かされたのが、これまでの結婚生活で夫の言動に対して「勝手に思いこんで物事を悪いほうにとらえていたかもしれない」と思い返したんですよね。
このコトバを聞いた瞬間、
20代のころの私の人生の格言は「優しさの裏にはやらしさがある」
だったのですが…
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」に変わりました。
このメッセージの裏にあるのは、
「良いことも悪いことも何事も受け取り方次第だよ」
これこそまさに私なりの解釈です。
凄く素敵な言葉だなと…30代の私の格言にしようと思います。
さらに、別居したことにより
- 異常なくらい他責思考
- 豆腐のごとく精神的に弱い
- 想像以上にネガティブ
- 気持ち悪いほど思い込みが激しい
そんな自分に気付くこともできました。(笑)
別居しなかったら、絶対気付くことができなかった自分の感情や思考たち。
今はどうやったら、子供が笑って幸せな生活ができるのかそれだけを考えています。
だから、今の生活は神様が与えてくださった試練だと思って乗り越えてやろうと思っています。
なぜwebライター?

これまでの人生で、少しだけいろんな経験をさせてもらってきた私ですが、「なぜ急にwebライター?」そんな風に思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
なので最後に、少しだけその理由をお話して終わろうかと思います。
先ほど、私は一人ぼっちになったので時間がたくさんあったと話しましたよね。
そこで、自分との対話をする中で「私の価値観とは?」について考えることがありました。
あれは違うこれは違うと、色々深ぼってみると…
私の人生の価値観において、5つの軸を大切にしていることに気付かされました。
それが、
「自立、安定、成長、貢献、信頼」です。
この言葉を文章に置き換えると、
- 自分の力で暮らし、心も身体も安定した生活
- 日々学び成長し、それをブラッシュアップ(アウトプット・共有)することで周囲へ貢献・信頼されること
このような2つの価値観が導き出されました。
これまでのブログやインスタの経験も合わさって(自分の情報発信ができない今)人の伝えたいことを代行して、さらに売上貢献してあげることが私にしかできないことだと思い「WEBライター」という職業にたどり着いたのです!
文章とは面白いものです。
一つの文脈に対して色んな解釈ができるのですから。
ただwebライターといっても、今や幅が広いもの。
・大手メディアの記事を執筆するライター
・個人ブログ記事を代わりに書くライター
・sns運用代行するライター
・キャッチコピーに特化したライター
・セールスの文章に特化したライタ―
・LPのようなデザイン系まで手掛けるライター
できるジャンルが広いほど、請け負う仕事の幅も広がり高単価で稼ぎやすくなると言われています。
私は、
・インスタ運用の経験があったこと
・文章を書くのが好きなこと
・お金関係を調べるのが好きなこと
この3つの理由から金融に特化したライターになろうと決めました。
ちなみに、会社員としてwebライターという選択肢もありますが、自分でスケジュールを組んで生活することがわりと好きなので、フリーの働き方が自分には一番合っていると思い今の働き方を選定。
まとめると、在宅ワーク ✖️SNS運用✖️ライティング=私にしかできないお仕事がwebライターだったというわけです。
さいごに

ここまで長々と読んでくださり、本当にありがとうございました。
webライターとしては、まだまだ未熟な人間ですが…私の人生、いくつかの修羅場を乗り越えてきて断言できることがあります。
常に長い目線で捉えた「信頼・貢献」を意識しており、この点に関してはどこの誰よりも担保できる自信があります。
クライアント様の売上向上はもちろんのこと、クライアント様のそのお客様の信頼を損なわないような文章を意識したライティングを提供いたします。
この記事を読んでくださった皆様に伝わりますように。
今後ともよろしくお願いします。